佐々木宏 - 前編

民宿マツミ荘の運営や、歌手としても活躍している佐々木宏さんにアオガミライプロジェクトリーダー佐々木加絵がインタビューさせていただきました長年青ヶ島村長も務めたこともある宏さんに青ヶ島の歴史や文化について、体験も含めて語っていただきました。

加絵:まずはじめに宏さんのことを教えてもらいたいです!中学を卒業し青ヶ島を出てからは何の仕事をしていましたか?

宏さん:15歳から18歳までは八丈島で、障子とかドアとか雨戸を取り付けたりする建具屋さんで働いてた。でも修行みたいなもんでお金は全然もらってなくて、八丈島の温泉ホテルでアルバイトした。そこでお仕事に入ったらいきなり1万4000円だ。それで7ヶ月でお金を貯めて、ある人に「大工になるなら材木の勉強もしろ」って言われて材木屋さんに1年間勤めた。それでその後文京区の工務店に入って3年半くらい務めたかな。
その頃俺も22、23のさ、若盛りなんだけど。大工さんなんてさ、女のいない世界だからさ、ちょっとつまんねぇなと思ってね。
工務店を辞めて、22、23歳の時にタクシーの運転手さんになって。そのタクシーの運転手を3年半したことが、俺のいわば人生をさ、変えたきっかけなんだよ。
そんでバブル期だったからさ。またいっぱいお客さんチップもくれるしさ。すごいね、楽しかった。

加絵そこで喋りもどんどん上手くなったんですね(笑)

宏さんそうそう、お客さんだってね、1日に何十人も乗っけるの。それを3年半やったらもう何千人だよ。お客さんと色々な話をするうちに、あるお客さんから「島に帰って政治家になりなさい」と言われてさ。いつかは議員になろうかなと思ってた。

加絵:帰ってきたきっかけはあるんですか?

宏さんみんな卒業して八丈島や、東京に行ってしまっていた時代だったんだけど、「人口は減っているけど自治体として残したい」という思いを持った先生が土地や家を買って、島のために頑張ろうとしてくれたんだ。でも子どもたちはどんどん出ていくし、人口も益々少なくなってくる。そんな時に八丈小島が「人口100人割れたので集団離島になる」という話を聞いて。それでその先生が、卒業生や子どもたちに手紙を書いてくれたんだよ。このまま島がなくなってもいいのかと。
俺も東京にいたけど、そうやって先生から手紙が来るしさ、俺も長男だしな。それを機に、帰ろうかなと思ってさ。まだ若かったから東京には未練はあったけどね。最後の思い出に友達と北海道をオートバイで1周ツーリングして、それを最後に島へ帰ってきたのよ。

帰ってきてからは議員にもなったけど、スナックや大工、パッションフルーツを作って農家やったりしてた。それから船買ってさ、漁師やったり。漁業協同組合の会長になり、漁業権の設定をしたことでマスコミからも大きく報道されたこともあったよ。

加絵なんでもやってますね。

宏さん:帰ってきた時、人口は200人ぐらいはいたかな。若い人もいた、結構。手紙をくれた先生のとこで、青ヶ島のまち起こしをするために青年団を結成しようということで、学校の先生10名、青ヶ島の若手10〜20名で、青ヶ島青年団が結成されたんだよ。
そのときの初代団長が俺でさ。それから色々と活動していく中で、タクシー運転手の時に言われた「議員やったら」って言われてたのもあったけど、どうしても村の行政に関心を持つようになって。27歳か28歳くらいの時に議員になって、16年やったんだ。青ヶ島の最大のお祭り「牛祭り」を復活させたりしたよ。そこで楽しい相撲を取ったり、腕相撲をやったり、カラオケ大会やったり。

他にも、若い人が大勢帰ってきたのに娯楽が無かったから、喫茶店開いたりスナック開いたりしたね。カラオケ入れたりさ、そうやって賑やかになってきたんだけど。

加絵村長にもなってましたね。

宏さんうん、平成元年に村長に立候補した。学校や職員寮を立て直して先生たちに「来たい!」と思ってもらえるような島にしたり、郵便局舎建設をしたり、村営船還住丸を建造し船のダイヤを整理したり、色々なことをしたよ。

印象深いのは、俺が村長になってさ、「全島民引き上げ訓練」って言って、何かあった時に八丈島に全島民が引き上げるための訓練をしてたんだ。東京都知事もちゃんと来て陣頭指揮をやってたんだよ。でもみんなで八丈島から帰れなくなって、ホテルに2泊くらいしたこともあったな。

あとは俺が現職の村長の時、高知県とのつながりもあったな。
青ヶ島に人が住み着いたっていうのは、15世紀って言われているらしい。相当昔だよね。
昔話をすると、高知県から江戸に年貢を納めに行く途中船が流されて、鳥島に流れついた人たちが居たんだ。20何名乗ってたんだけど、無人島で13年。みんな死んでいくなか「野村長平」だけ生き延びた。そこへまた大工道具とか積んでる船が遭難してきて、協力して生活しながら船を作ったんだと。そして再度江戸を目指して航海中、青ヶ島が見えて。そしたら崖にはしごがかかっているのが見えたんだ。「これは絶対人が住んでる島だ」って、船を捨ててみんな青ヶ島に上陸したんだって。そしたら島の人は、突然来た髪がボーボーな訪問者に驚いて逃げたりしたんだけど、事情を話したら「それじゃ今日は青酎でも飲みながらね、ゆっくり休め」と。明日岬案内、八丈島案内してあげるからって言って。そうやって八丈島へ連れて行ってくれて、野村長平がやっとの思いで高知県香我美町に「ただいま」って帰ったら、地元の人からはとっくに亡くなってると思われてて、長平本人の13年期の供養やってるときだったって。これ本当の話なんだよ。

加絵すごい、映画みたいな話ですね。

宏さんそれで俺が現職の村長の時にさ、高知県香我美町の人たちが野村長平のルーツを辿って「青ヶ島にはすごくお世話になった」って青ヶ島を訪ねてきたんだ。俺はあの学校のさ、下の和室で歓迎したんだよ。その時の土産がこの忍って書いてある色紙なの。

大相撲の立行司で有名な29代木村庄之助。あの方が高知県の香我美町出身なんだよ。それで世話になったお礼にってお土産にその耐え忍ぶ「忍」を書いてくれたんだよ。これずっと村長室に飾ってさ。苦しいことがあっても、長になると。耐え忍びなさいと励みにしていた。ありがたいことだな。こうやっていろんな角度から応援してもらうからさ、頑張れるんだよ。

加絵そんな歴史もあったんですね。宏さんは青ヶ島のことをよく知ってますよね。

宏さん:俺は語り部みたいなことをやりたいんだ。戦後の本当に苦しい時代の青ヶ島の生活のことを知っている人は少なくなったよね。教科書もないのに義務教育と言われて、小中学校を卒業する。同級生は6人で、都会も見たこともないし、情報は少ないし、車も見たことない時代でさ。みんな昔はどこの家でも5人〜8人兄弟が普通。それで生活も大変ではあったけども、みんな同じような生活だから羨ましいとも思わなかったしな。
そういえば、船は元々冬になれば3ヶ月も来なかったんだ。

加絵3ヶ月!?青ヶ島丸(八丈島との連絡船)はその時、週に何回来てたんですか?

宏さん:5のつく日に来てた。5、10、15…月に5日くらいだね。
だからね、年賀状書くじゃん。年賀状を書くと、桜の花が咲く頃に東京に届くわけだ。東京から青ヶ島に年賀状が届く頃は陽気が良くなって、1ヶ月に1回ぐらい船が来るようになる。桜の散る頃に青ヶ島に年賀状届くっていうね。そういう現実があってさ。

こういう風に子どもたちに「昔はこうだったよ、あぁだったよ」って話したいよね。

ー後編へ続く