奥山晃さん

青酎の杜氏でもあり、青ヶ島酒造の顔として青ヶ島ファンの間では有名な奥山晃さんにお話を伺いました。飲み友達でもある私佐々木加絵が普段は聞けない昔話など聞いてみました。

加絵:それでは、よろしくお願いします。まずはお名前と自己紹介をお願いします。

晃さん奥山晃です。職業は会社員と牧場と焼酎と農家をやっています。

加絵:会社員っていうのは建設業ですよね。それが一応メインの仕事ですよね。

晃さん:そう、そして兼業で青ヶ島の焼酎「青酎」を作ってまして
後は今レモンの苗を植えて、百本ほど育てています。

加絵:分かりました。青ヶ島出身なのは私はもちろん知ってますけど青ヶ島でどんなふうに育って、中学卒業後島を出てどんなことをしていたか聞かせてください。
子供の時のことを教えてください。

晃さん:子供の時、もうはるか昔だから記憶にないよ笑

加絵:この時はまあゲームとかはないですよね?遊ぶのは何して遊んでましたか?

晃さん:囲碁とか将棋とかはやったりしてたね。親に付き合わされてね。あとは家の仕事も。子どもの時から畑をやって牛の世話もやってましたね。
山で遊んだりとか遊び場所はどこでも、昔はもっと、ほぼ山だったからね。

加絵:海でも遊んだり?

晃さん:うん、海も行ってた。もう夏になればね、みんな海に必ず出かける。夏休みでも家の仕事はあるから、仕事をなるべく早めに午前終わらせてから港に遊びに行ったり。
昔は今みたいに三宝港だけじゃなくてね、色んな方向から海に降りられたから。

加絵:今もう崩れて行けなくなっているところ?集落から歩いて行けたのは今では羨ましいですね。

晃さん:そう、神子の浦とか西浦とか大千代とか色んな方向に降りられたからね、みんな凪てる方へ向かって行ってね。

加絵:同級生は何人いました?

晃さん:同級生は12

加絵:12人!!

晃さん:うん、一番多かったかな。

加絵:確かに多い!そしたらもうなんだろう学校全体で何人ぐらいですか?

晃さん:何人ぐらい居たろう、小学校上がった頃には80人か90人くらいは居たんじゃない。

加絵:えー!80人!今では考えられないくらい多いですね。そしたら全員の顔と名前は覚えられなさそう…

晃さん:いや覚えてたよ。

加絵:上も下も一緒に遊んだり面倒見合ったりとか?

晃さん:そうそう、9人兄弟の六番目だからね。

加絵:9人兄弟…!いや人多い!そんなにいたんだ。

晃さん:俺の年代の人たちはみんな兄弟はそのぐらいだよ。

加絵:人口もじゃあそのときは?

晃さん:多かったよ、300人近くいたね。

加絵:じゃあ活気があった?

晃さん:うん。小学生に上がった頃からどんどんとみんな東京に出て行ってしまったけど。
日本の高度成長期でね、家族で東京へ越していった。そこから一気に人が少なくなっていったね。

加絵:じゃあ本当に一番人口がピークぐらいの時が幼い頃で、だんだん減っていくのを見てきた?

晃さん:そう、中学卒業するときにはもう200ちょっとしか居なかったね。帰ってくる人も少なかったしね。

加絵:なるほど。卒業後、東京での高校生活はどんな感じでしたか?

晃さん:都立の普通科の男子校で全寮制だった。もう朝から起床らっぱで起こされて朝6時半には朝礼所に集まって、そこでラジオ体操やって点呼やって1、2、3、4、5!ってやって、それから7時に朝食。そして朝の片付けをしてから学校へ行くと。
外に泊まれるのは月に2回だけ。で時間に遅れたら外出禁止といって一か月間ぐらい外に出してもらえない。学校の敷地から外に出られなくなる。

加絵:じゃあ規則正しく学校へ行き勉強して夜も勉強してという生活だったんですね。
それってあえてそういう厳しい学校を選んだのですか?真面目に勉強に没頭する気持ちで?

晃さん:全寮制ならアパートとかそういうのを借りなくてもいいからね。それもあるし、都会を見たかったからね。おとなしくしてた、親に言われてたからね「真面目にしなかったら行かせないぞって」

加絵:9人兄弟ですもんね。

晃さん:うんだからうちの男兄弟三人共同じ高校に行った。

加絵:今考えると9人学校に行かせるって大変なことですよね。

晃さん:大変だったと思うよ。当時兄弟全員高校まで行ったのはうちの兄弟ぐらいしかいないんだよね。

加絵:うんうん。そうなるとやっぱり何が何でもちゃんと卒業しないとって思いますね。

晃さん:そうそう、お金かけてもらってるからね。まあでもその頃も夏休みと冬休みは島に帰ってきてずっと建設現場でアルバイトしてたね、高校三年間。
高校卒業後は一年間ふらふらしてて、その後大学受けて入って、でも中退して、それでそこから居酒屋で働き始めて、続けていくうちに店長になって、この後は全部お店を任されるようになって、家賃払いながら自分で経営してた。武蔵小金井で十年ほどやったね。

加絵:じゃあその時からというか、まあ島の人はみんなかもしれないですけどお酒好きだったんですね。

晃さん:そうだね!まあ若い時だからね、いくらでも飲めたからね。今はもう年だからなかなか飲めないけどね。

加絵:そうですか?飲んでると思いますけど(笑い)。それで、じゃあ島に帰った時は三十半ばぐらい?

晃さん:そのとき42かな。

加絵:どうして帰ろうと思ったんですか?

晃さん:30の時かな、一番下の弟が亡くなって、まだ両親がこっちに残ってたからね、弟と妹が一人ずついたいたけど大変だろうなと思って。まあお姉さんたちの勧めもあって帰ってきた。

加絵:その時私も島にいた。亡くなった時の記憶がある。

晃さん:平成十年かな、うん。

加絵:じゃあ当時私は中学校三年生だからすれ違いだったんですね。私が島を出た頃に晃さんが島に帰ってきたんですね…きっかけは私と近いですね。私も父が亡くなった事で島のこと、家族のことを考え始めました。

晃さん:いつかは帰ると思っていたけど、きっかけにはなったね。
本当は長男が青ヶ島に帰るはずだったけど、八丈島までしか帰って来なかった(笑)八丈島で通信関係の仕事をしててね、父も昔、青ヶ島で同じ仕事をしていたんだ。

加絵:いろいろと繋がっていくんですね。

晃さん:兄の子供も同じ仕事で青ヶ島に派遣されてきたりね。

加絵:おもしろいですね。では、今一番楽しい事はなんですか?

晃さん:仕事だね。

加絵:おお~!素晴らしいです。

晃さん:特に牛に餌をあげている瞬間、自然の中で牛たちがもぐもぐしているところを見ると癒されるねぇ。

加絵:では逆に今までで一番大変だったこと、苦労したことはなんですか?

晃さん:そうだね、島に帰ってきた時かな。42歳で戻ってきた、東京生活が長かったからその頃はなかなかなじめなかった。それが一番辛かったかな。

加絵:確かに向こうの感覚に慣れてしまうと、大変ですね。特に当時は今よりも人も多かったですし。

加絵:今、イチオシはなんですか?

晃さん:青ヶ島レモン!ブランドレモンとして、島外の飲食店などにこの美味しいレモンをアピールしていく。島の中でお金を回すんじゃなく、島の外に良いものをどんどん売り出していって、青ヶ島にお金を落としてもらう。青ヶ島には良いものいっぱいあるから!そうして島外の人も喜んでくれるし、青ヶ島も良くなる。

加絵:素晴らしいですね!まさに今までの晃さんの経歴が活かされますね。東京で培った営業力、コミュニケーションとか、ものの見方が違ったり。どちらも知ることで新しいことが生み出せるのかもしれませんね。
青酎を全国区に広めたように、これからはあおレモンを広めていくんですね。

晃さん:うん、加絵ちゃんもPR宜しくね。

加絵:もちろんです!それでは最後にこれから青ヶ島に戻ってくる人や移住したい人へひと言お願いします。

晃さん:これからはテレワークの人が増えていくんだと思う。ITの人増えるだろうけどせっかく青ヶ島に住んだならこの土地に関わる事業、新しく特産品を作ってもいいし、牛を飼ってもいいし。若い人の発想力でどんどんやってほしいと思うね。