廣江寛さん-②

今では考えられない様な高校生活を語っていただいた廣江寛さんインタビュー第一部。
第二部では輝かしい成功を納めた東京での仕事、人生のキーポイントになった仕事に、自身の廣江興業のことなどをお送りいたします。
第一部はこちらから。

高校を卒業してどこへ就職しました?

卒業してすぐ工学院大学ってとこに行ったんだけれど、麻雀ばっかりやってて退学になったから、青ヶ島に帰ってきて。
広江建設ってとこで2年間だけ土木作業員をやっていたけど、いろいろ事情があって二十歳の時、東京へ戻って就職。

公共職業安定所に行ったら、声をかけられて面接してみないかって言うから、退屈なのもあって喫茶店で面接したのよ。
そこで試験というか心理テストを受けたら、成績がよくて(笑)
それで「仕事やってみないか?」って言うから、まあ上場会社だしちょっと働いてみようかなと思って就職。
寮に入って杉並区の阿佐ヶ谷で営業所勤務。
それから働いてた営業所が合併されて新宿に異動。
ミシンの販売会社なんだけど、その当時、全国に200いくつかの営業所があったんだけど、新宿がナンバーワンの営業所なんだよね。
そこで営業してたら成績がよくて、28の時には府中の支店長になって、1年で赤字の支店を黒字に。
黒字にしたのはいいけど、また違うとこに異動。


会社って面白いもんでさ、成績がいい人が悪いとこに行けば立て直せるんじゃないかと思って、今度は小田原に行けって言われて小田原に支店長として行ったんだよ。
そこもまたすぐよくなったんだよ。
その時は給料や待遇もよくしてくれて、普通の支店長だと家賃とかでないんだけど、家賃を出してもらったりで。
結婚もしてたんだけど、ちょうど30の時にやめちゃったんだ。
なんでかっつたらさ、上場の会社だから上にいる引き立ててくれる人がいなくなると出世って絶対できなくなるんだよ。
会社ってそういうもんなんだよ。
俺の上にいた人が派閥争いで辞めて、それで冷遇される様になって、小田原が良くなったらもっと遠いところへ飛ばされるんじゃないかと思って。
その時、子供2人が4〜5歳で、公団住宅を何回か申し込んで。
奥さんの実家が千葉の柏なんだけど、柏の先にある茨城の取手のとこが当たって、引っ越しをきっかけにして辞めた。

30の時に取手で就職しようと思って、竜ヶ崎の公共職業安定所に行ったんだよね。
30でさ、支店長をやってたから結構年収があったけど、「ここで同じ年収を稼ぐのは無理ですよ。どういう仕事がいいですか?」って言われてさ。
大体なんでも仕事はできると思って探したけど、収入面が厳しくて。
以前と同じくらいだと東京は通勤圏だからそこまで働きに行かないと難しいですよと言われて、じゃあ無理かなと思いながら新聞を見てたら、「小笠原の海で働きませんか?」って募集してたとこを見つけて。
俺は島へ帰りたいと思ったのね。でもうちの奥さんは公団住宅も当たったし、子供の環境もあったんで、島に行きたくないって言ったのかな?

青ヶ島で土木作業員をしたことがあるけど、小笠原も募集は同じ職種。
小笠原に行ったことがないから興味もあるし行こうかなと思って、その会社に面接に行ったんだよ。

そしたらそこが俺の人生のキーポイントだよな。


きっかけはたまたまだよ。新聞で募集の広告をちらっと見ただけだよ。
小笠原っていうのもあったんで、すぐ電話して面接に行きますって言って。
それでさ、面接に行ったらプレハブのほったて小屋みたいなとこで。錆びててさ、今にも潰れそうな会社。
こりゃだめだなと思ってたんだけど、社長さんと面接したら、話も大してしないで「働く気があるか?」って聞かれて、「やってみます」って言って。
断るつもりでいたんだけれど、事務所の横に部屋があって、そこから、ガラガラジャラジャラって麻雀の音がするわけ。
それで社長がドアを開けて入って行ったのを見たら、中で麻雀をやってたの。
昼間から麻雀できる会社いいなと思って(笑)

俺麻雀大好きだから。その当時もしょっちゅうやってたから。

昼間から麻雀をやる会社なら俺も務まるかもと思ってさ、速攻で次の日、引っ越し荷物を持って行って。
そしたらその社長と気があったんだな。
普通はみんな土木作業員は今は個室が当たり前だけど、その時は大部屋よ。
だけど俺のためにわざわざ寮の近くに一軒家を借りてさ。
木造の部屋が2部屋くらいの家族が住む様なとこ。
そこに俺ともう一人。部屋は別々だけど住んでた。
そいつも重宝された。
なんでかって言うと社長も麻雀好きでそいつも麻雀をやる。俺も麻雀好きだからさ、朝から晩まで時間があれば麻雀だよ。

それってどんな内容の仕事?

水道会社なんだけど、夜勤なんだよ。
麻雀をやるけど、もちろん仕事もちゃんとするよ。

夜勤だから、夜20時くらいから朝5時くらいまで仕事してから帰ってきて、7時くらいに食堂で飯を食べてると「おう廣江、来いよ」って、すぐ部屋に連れてっててさ、社長が8時から仕事するまで麻雀だよ。

俺は夜勤明けで眠いけど付き合った。
仕事の給料もよかったし、給料は全部家に仕送りしてたからさ。

ということは一人で小笠原に来て仕事と麻雀を?

俺も小笠原に行こうと思ってたんだけど、社長が麻雀好きで、自分のことに置きたいもんだから、小笠原に行かせないで東京で仕事。
30年勤めたけど、結局小笠原に一回も行ってません。
社長はもう死んじゃったけどね。でも社長のおかげで色んなとこと付き合いができた。

いつぐらいの話なんですか?

俺が入ったのはバブルが終わった頃で、水道工事でこの会社が急成長。
入った頃は、車とトラックが2台とダンプや重機が1台しかなかったけど、あっという間に人が増えて。今でも会社は残ってるけどね。
30〜48までくらいだから18年ぐらい働いたね。
1年目で社長から現場を任されて、親方として赤坂で工事したり、色んな現場の工事をしたよ。
それで帰ってきたら麻雀。

自分の廣江工業はいつ作ったの?

本格的に登記したのは6年前。
その前から廣江工業として、個人事業主としてちょこちょこ仕事は貰ってたのね。

ちょうどその時、八丈島にいたんだよ。
部屋を借りて船に乗って漁師の兄貴の手伝いをしたり、釣具屋でアルバイトしたりだとか。
そうしたら、東京で水道工事をやってみないかって話がきてさ。
これから工事がすごいいっぱいでて、仕事もあるから会社を作って、本格的に人を集めて。
東日本大震災で、東京都から水道工事の案件が沢山あって、会社をつくって、本格的に人を集めて。
3年前には青ヶ島で水道工事の経験を買われて、光ファイバーの海底ケーブルの工事をやったりとかしたね。

八丈島にいたってことは、この時には前の水道工事は退職済み?

48歳の時に大手術したんだよね。
その手術の前後に社長が亡くなったんだよ。
そしたら会社で麻雀できなくなっちゃったんだよね。
社長との付き合いで俺、麻雀をやるためにいろんなとこ行ってたからさ。
そしたらつまんないじゃん。麻雀やれないし。
あと療養期間で仕事できなくなって。

ちなみになんの病気だったんですか?

これはね。喉の病気じゃなくて、首。頸椎。
何年か前にバイクで走ってたらさ車にはねられたのよ。

そしたら社長が俺をすごく気に入っていて、現場は俺がいないとダメだって思っていて、「お前点滴打ちながらでも仕事に行け」って言われてさ。
その時医者に「何年後かに首に発症しますよ」って言われたの。
本当はその時に手術すればよかったんだけれども、何もしないで。
それからその先生に言われた通り、何年後かにむちゃくちゃ首が痛くてさ。もう大変だったのよ。
骨の中に神経が通ってるんだけど、骨が変形して穴が小さくなって神経をいじめるわけ。
9時間半もそれを取り除く大手術をしたわけ。
もうほんと死ぬくらい痛かった。
傷跡が残ってないけど、ここから骨を持っていって付け直した。
これは頚椎の病気だけど今はもっと楽にできるらしい。
その当時、俺が50歳手前だったからさ、ここを切ってちゃんと直しましょうってことで手術した。50歳を過ぎると後ろから切らないと骨が耐えられないんだって。
手術が終わって一週間くらい喉にものが通らなかったよ。
 
リハビリを1ヶ月以上したのは、あれは苦しかったな。



人生が変わるきっかけって本当にささいな所にありますね。
廣江さんの行動力もすごいですが、趣味だった麻雀が繋いだ縁がすごい。

第三部は島に戻ってきてからの生活、青ヶ島の未来や夢を語っていただきました。
更新をお楽しみに。